グロテスクなセレナード

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今回はラヴェルのピアノ作品を紹介します。

まずは、代表曲『グロテスクなセレナード』。現存しているものでは、これがラヴェルの最初のピアノ作品です。

作られたのは1893年頃だと考えられています。120年ほど昔ですね。

実はこの曲は、出版社を経て世には出ていません。
第二次世界大戦の後になって発見されたものなんです。

発見されてよかったですよね・・こういう素晴らしい作品が、もしそのまま埋もれてしまっていたらと考えると恐ろしいです!

この曲は、全体が全音音階で溢れています。

ラヴェル独特の曲風の色はまだあまり感じられず、クロード・ドビュッシーへの傾倒がよく感じ取れる曲になってます。

ラヴェルの考え方

それは「作曲家は創作に際して個人と国民意識、つまり民族性の両方を意識する必要がある」というものでした。

1928年、アメリカとカナダの 25都市の大きなコンサート・ホールでピアノ公演を行なうために渡米した際も、アメリカの作曲家達に「ヨーロッパの模倣ではなく、民族主義スタイルの音楽としてのジャズとブルースを意識した作品を作るべきだ」と言ったそうです。

これは一説によれば、オーケストレーションの教えを乞うたジョージ・ガーシュウィンに対して「あなたは既に一流のガーシュウィンなのだから、二流のラヴェルになる必要などない」と発言した、ともされています。

さすがですね。


アンドレ・ジェダルジュ

ラヴェルは、リヒャルト・ワーグナーのような宗教的テーマを表現することを好まず、

その代わりにインスピレーション重視の古典的神話を表現することを好んでいました。

ピアノ協奏曲ト長調について、ラヴェルは、モーツァルトおよびサン=サーンスの協奏曲がモデルとして

役に立ったと言っています。

彼は1906年頃に協奏曲『Zazpiak Bat』(バスク風のピアノ協奏曲)を書くつもりでしたが、

結局完成されませんでした。

ラヴェルはこの作品を放棄しましたが、その代わりピアノ協奏曲など、他の作品のいくつかの部分で、

そのテーマとリズムを使っています。

ラヴェルは、「アンドレ・ジェダルジュは私の作曲技術の開発において、非常に重要な人でした」

と語ったといいます。


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ジェダルジュは対位法教程を残した初期の作曲家です。

ラヴェルの他にもシュミット、ミヨー、オネゲルらフランス近代を代表する新古典主義者を育て、

この時期をを代表する教育者のひとりです。


いろんなものからの影響

ラヴェル自身は、モーツァルトやフランソワ・クープランから物凄く影響を受けていると主張。

また彼はエマニュエル・シャブリエ、エリック・サティの影響を自ら挙げていて、「エドヴァルド・グリーグの影響を受けてない音符を書いたことがありません」とも言っています・・・。

更に先述のようにスペイン音楽、ジャズに加えて、アジアの音楽やフォークソングを含む世界各地の音楽に強い影響を受けたのだそう。

いろんな人やたくさんのものから影響を受けて、それを自分の作品に、自分のやり方で生かすことはそう簡単ではないですよね。

ものを生み出す人は素晴らしいです。

作風

「オーケストレーションの天才」「管弦楽の魔術師」と言われる卓越した管弦楽法、「スイスの時計職人」との評もある精細な書法が特徴的。

母方の血筋であるスペインへの関心は色々な楽曲に見出だされ、「ヴァイオリン・ソナタ」「ピアノ協奏曲ト長調」などにはジャズの語法の影響も見られます。

ラヴェルはドビュッシーと共に印象派(印象主義)の作曲家に分類されることが多いです。

が、ラヴェルの作品はより強く古典的な曲形式に立脚していて、ドビュッシーとは一線を引いていた。
ただ・・・自身への影響を否定はしながらも、ドビュッシーを尊敬・評価し、1902年には実際に対面も果たしています。
そして、ドビュッシーもラヴェルの弦楽四重奏曲ヘ長調を高く評価するコメントを発表しているので仲良しさんなんですね^^

62歳にて永眠

病床にあって彼はいくつかの曲を考え、それを書き留めようとしたのですがついに・・・・1文字も書き進める事が出来なくなったと伝えられています。

ある時、友人に泣きながら「私の頭の中にはたくさんの音楽が豊かに流れている。
それをもっとみんなに聴かせたいのに、もう一文字も曲が書けなくなってしまった」と呟いたそうです・・。
友人に書いてもらう事は、出来なかったのでしょうか・・・・。

同時期に、ラヴェルは神経学者T・アラジョアニヌ博士の診察を受け、博士の勧めで1937年12月17日にヴァンサン教授の執刀のもとで手術。

この手術は彼は望みをかけたのですが、左半球の症状であるにもかかわらず、右半球を開頭し、萎縮した脳を膨らまそうとして水を注入するなど、ほとんど無意味なものだったという・・・。
その手術の仕方は、合っているのでしょうか・・。

手術後、一時的に容体は改善したのですが、まもなく昏睡状態に陥り、意識が戻らないまま12月28日に亡くなりました。遺体はルヴァロワ・ペレ(パリ西北郊)に埋葬されています。

病状が悪化

1933年11月、パリで最後のコンサートを行い、代表作『ボレロ』などを指揮するが、この頃にはお手本がないと自分のサインも満足にできない状態にまで病状が悪化していたのです・・・。かなりヤバイですよね・・。
コンサート終了後にファンからサインを求められたラヴェルは、「サインができないので、後日弟にサインさせて送る」と言っていたそうです。
結構、苦しい事ですよね・・・。

1934年には周囲の勧めでスイスのモンペルランで保養に入りましたが、いっこうに体調が回復せず、病状は悪化のまま・・・。

1936年になると、周囲との接触を避けるようになり、小さな家の庭で一日中椅子に座ってボーっとしていることが多くなったそうです。そうなりますよね・・・。
たまにコンサートなどで外出しても、無感動な反応に終始するか、突発的に癇癪を爆発させたりで、周囲を困らせていたそうです。

もう少し前向きになればずっと素敵な人生になったと思いますけどね。
可愛そうです。

体調

字を書くときに文字が震え、筆記体は活字体になり、わずか50語程度の手紙を1通仕上げるのに辞書を使って1週間も費やした。

動作が次第に緩慢になり、手足をうまく動かせなくなり、それまで得意だった水泳ができなくなった。
言葉もスムーズに出なくなったことからたびたび癇癪を起した。

また渡されたナイフの刃を握ろうとして周囲を慌てさせたが、自身の曲の練習に立ち会った際には演奏者のミスを明確に指摘している(どんな病気にかかっていたか、またその原因が交通事故によるものなのかどうかは諸説ある。

交通事故

1928年、ラヴェルは初めてアメリカでピアノによる演奏旅行を行った。ニューヨークでは彼はスタンディングオベーションを受けた。同年、オックスフォード大学はラヴェルに名誉博士号を与えた。

1927年頃から軽度の記憶障害や言語障害に悩まされていたが、1932年、パリでタクシーに乗っている時、交通事故に遭い、これを機に症状が徐々に進行していった。タクシー事故にあった同年に、最後の楽曲『ドルネシア姫に想いを寄せるドン・キホーテ』の作曲に取り掛かるが、楽譜や署名を頻繁にスペルミスをするようになり、完成が長引いている。

第一次世界大戦中

第一次世界大戦中、ラヴェルは年齢とその虚弱体質から、小規模軽量を考慮した上でパイロットとして徴募したが、その希望は叶わなかった。

代わりにトラック運転手として兵籍登録されることとなる。
当初の手記では、彼が戦時中に運転したトラックは「砲トラック」か総括的なトラックとの言及がほとんどで、救急車を運転するとの言及はないという。

大戦で友人たちを失ったラヴェルはその死を悼み、「クープランの墓」を作曲した。
その後、フランス政府が彼にレジオンドヌール勲章を授与したが、ラヴェルはこれを拒否した。